無個性であることを選ぶ

どうも、サカモト(@SkmtKari)です。

 

現在は個性が重要な時代だと言われます。

学校では個性を伸ばすという名目で様々な教育が行われていますし、会社では個性的な社員を採用する動きが高まっています。

 

確かに、集団において人より秀でたり目立ったりするためには、個性が重要なときはあります。

 

しかし僕には、人々が個性個性と言われ続けた結果、どんどんつまらない方向に進んでいっているように見えます。

もっと「無個性であることを選ぶ」という選択肢があってもいいと思うのです。

個性とは何か

そもそも個性とは何でしょうか。

 

デジタル大辞泉で「個性」という単語を調べてみると、

個人または個体・個物に備わった、そのもの特有の性質。

という意味だそうです。

 

このことから、人が個性を持つには、自身に備わった特有の性質を見出すことが必要だと分かります。

 

しかし今世の中で求められている「個性」は、本当にこのことを指しているでしょうか。

僕はそうは思いません。

 

例えば学校で育てようとしている個性のことを考えてみましょう。

個性を発揮する材料として、絵や作文や話し合いなどが用いられる場合があるでしょう。

ここで求められる個性とは何でしょうか。

僕は「学校が良いと認める範囲内で、他の人とは異なるアウトプット」だと思います。

 

本来、個性に良い悪いはありません。

その人自身の特質は全て個性なので、例えば「モラル的にはアウトだけど個性的」ということは十分にあり得ます。

しかし学校では、「モラル的にアウト」であれば、その多くは認められません。

あくまで大人が良いと認める範囲内でのみ、個性が求められるのです。

 

このことは学校に限らず、会社や社会でも同様のことが多く見受けられます。

というか、個性を求める場面のほとんどは、この例の御多分に漏れていないように感じます。

 

このように、僕たちが求められている個性は、本来の意味から非常に遠ざかっています。

今求められている個性は、意訳すると「良い子ちゃんの範囲で他の人とは違いを出してね」という、全然おもしろくないものに貶められているのです。

無個性を選ぶということ

これが、僕が無個性であるという選択肢があってもいいんじゃないか?と考え始めた理由です。

 

今求められている個性は、誰か偉い人が決めたルールの範囲内で、他人と異なることを求めるものです。

過去の成功体験や、偉い人の価値観などの何らかのルールが背景にあり、その範囲に収まるものしか認められないので、本当に個性的なものは出てきません。

その中で個性を求めるほど、他の人と同じ、画一的なつまらない人間になります。

 

また個性的でありたいと願う人間ほど、中身のないつまらない人間であることが多いと感じます。

個性的でありたいと願う人間は、自分以外の何かになりたいという願望が強く、最も個性的ではありません。

 

となると、実は無個性であることを選び取った人たちの方が、地に足がついている立派な人たちなのではないか?

最近そう思うようになったのです。

 

実は無個性であろうと決めることには、かなり勇気がいります。

何かに秀でようとせず、誰かに勝とうとせず、今の自分を受け入れて生きていくということは、非常に大きな決断です。

それにも関わらず、無個性であることを貫き通せるということは、他者の価値観に揺さぶられることがない、確固たる自己を持っている証拠でしょう。

その確固たる自己を持っている人こそ、翻って、非常に個性的な人だと、僕は思います。

「個性が欲しい」と思っている人よりもずっと。

 

このような理由から、僕は「無個性であることを選ぶ」人が、世の中に増えてほしいと思っています。

そして自分を「個性がない」と蔑んでいる人たちには、「それを卑下する必要はないんだよ」と伝えたいのです。

個性を求める無個性な人々

一方、僕が一番嫌いなタイプの人は、「自分の個性を、既に個性的だと世の中に認められている人に言い寄ることによって得ようとする人」です。

このタイプの人たちは、個性を持ちたいと人一倍熱望しながら、それを自分の手で手に入れる努力を怠り、有名人や役職者に近づくことによって得ようとします。

 

前に述べた通り、個性とはその人自身の特質のことです。

そのため、個性を求めるならば、他者と自分との比較を粘り強く続け、自分にしかない物の見方や能力を見出すしか方法はないはずです。

 

TVやネット上の有名人をよく観察すると、その人は他の人とは明らかに異なる特質を持っていることに気づきます。

「この人と言えばこれ!」という特徴を指摘することができます。

その特徴の多くは、その人が人生を通じて見出したものです。

特徴を発見するまで、その人は並々ならぬ観察力を自身と他者に向け続けていたのでしょう。

 

このことを理解せずに、上記の人々は、簡単に個性を得ようとして、既に有名になっている人々に近づくことによって、自身の個性を得ようとします。

その行動は、他の人の個性を間借りしようとしているだけなので、個性本来の意味からはるかに遠いものです。

これらの人々は永遠に個性を獲得することはできないでしょう。

個性は楽して得られるものではないのです。

 

僕は今ブームになっている、有名人がやっている有料サロンが大嫌いなのですが、その理由は今書いた内容で説明がつきます。

いい大人が虎の威を借っていい気持ちになっているんじゃない。

自分の頭で考えて、自分の手で世の中に自分の価値を認めさせろよ。

そう言ってやりたいです。

「個性ゲーム」から降りる

重要なのは、無個性であることを「あえて選ぶ」ことです。

「何となく生活していたら、他の人と一緒になっちゃった」という状態は理想的ではありません。

 

そうではなく、意図的に無個性であることを選び取ることが、世にはびこる「個性のゲーム」から降りるために必要なのです。

それが、「個性的であろうとする無個性な人々」から自分を切り離す唯一の手段だと思います。

 

ではでは。