今日、祖母の具合が悪くなり入院したということを聞きました。
ぼくの祖母は重度の認知症であることに加え、腎臓が以前から悪い人でした。
そして今回、消化器官から出血した影響で貧血になり、輸血のために入院したとのこと。
今回は大事に至りませんでしたが、今後、出血の具合によっては再入院のリスクもあり、場合によってはもう退院できない可能性もあるという話でした。
もう祖母は88歳の高齢なので仕方がないことですが、やはり心配にはなります。
老後の病気に対する姿勢は、「改善」よりも「微減」を保つこと
祖母を見ていて思うのは、老後の病気に対する姿勢は、病気の改善よりも、症状が悪くなるスピードを遅くすることだということです。
老後の病気は、本人の体力や回復力が落ちていることもあり、病気をする前より症状が良くなるということはなかなかありません。
ではどうするかというと、投薬や通院を重ねて症状が悪化するスピードを遅くし、本人が苦しまない程度に保つ、という方法でその病気と向き合うことになります。
それは本人にとっても周囲の人にとっても手間がかかり大変なことですが、そういう風に向き合うしかないと思うのです。
良い意味で「諦観」できるようにする
このような病気に対して、「いつか病状がよくなるに違いない」と信じて本人や周囲の人が頑張っても、なかなか病状が改善しないので、出口の見えない暗闇を進んでいるような気になり、気が滅入ってしまいます。
病気のときはただでさえ本人や介護をする人は辛い状況なのに、「この状況はいつ終わるんだろうか」ということばかりが頭をよぎり、そのことが更に精神的に本人たちを追いつめてしまいます。
それが積み重なると、ひどいときには精神を病んで鬱のような状態になってしまいます。
そうではなく、ある意味「病気はもうよくならない」ことを認めた上でどうするかを考えた方が、未来に対して具体的に考えられるのではないかと思います。
ほとんど可能性のない希望をもつよりも、その希望を一端脇において、現状をきちんと把握した上で具体的にどう動くかを考えた方が建設的です。
良い意味で「諦観」するのです。
諦観の結果、メニエール病発症をきっかけにフルマラソンを完走した話
ぼく自身もメニエール病の患者ですが、メニエール病はいつ再発する病気か分かりません。
確かにこの難病を抱えて生きていくのには不安もあります。
どこか人のいないところで急にめまいを起こして動けなくなったとしたら、誰も助けてくれませんからね。
しかし、それを心配して外出しなくなってしまったりしまったら、余計にストレスがかかってしまいます。
また「メニエール病を絶対治すんだ!」と決意していろいろ行動したとしても(それ自体は素晴らしいことですが)、メニエール病は「完治した」ということがはっきり分かる病気ではないので、その人は一生確かな手応えをつかめないままずっと不安を抱えて生きていくことになりかねません。
それよりも、自分が病気であることを認めた上で、それでも生きていくためにはどうするかを考えた方が、未来に対して意味のある思考ができるのではないでしょうか。
ぼくの場合、その思考の結果がフルマラソン完走だったのですが、もちろん他にも様々な方法があるでしょう。
関連記事:やりたくないけどやらなきゃいけない運動を続けるコツ:メニエール病で倒れてから5ヶ月でフルマラソンをサブ4で完走して思うこと
「諦観」が「現実的な思考」を生む
このように、現実的に治らない可能性が高い病気に対して、「いつかはきっと治るはずだ」と非現実的な希望を掲げても、その努力の過程が辛いですし、それが裏切られたときのダメージは計り知れないでしょう。
それよりも「諦観」によって現実を認めた上で、それらの病気と付き合っていくためにはどうすればいいかを考えると、とても現実的な思考ができます。
「諦観」は「あきらめる」という言葉が入っているので、捉え方によってはマイナスなイメージがありますが、非常に建設的な方法なのです。
以上です。
祖母の容態が悪くならないことを祈りますが、悪くなったときのための心の準備もしておこうと思います。