現役の思想としての隠居:『超隠居術を読んで』

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この本に書かれているのは一風変わった隠居論です。

というのも、この本では、隠居を「引退や隠棲として」ではなく、「現役としての思想」として隠居を捉えています。

この切り口は他の隠居関連の本には見られない斬新なものです。

著者の坂崎重盛さんは、造園史および風景計画学を学んだ後、出版社勤務を経て、出版プロデューサー集団「波乗社」を立ち上げたという異色の経歴の持ち主。

その著者から繰り広げられる自由で力強い論調は、読むものを強く惹きつけます。

隠居に興味がある人は、ぜひこの本を一読することをおすすめします。

以下に読書メモを記載します。

他からのペースに引きずられて生きるのではなく、かけがえのない人生を、より快適に、自分に納得できる生きかたとしての「超隠居術」への志向が、覚める。

だからこそ、「超隠居術」は、パワー衰え、丸くなってからの”ご隠居”でもなければ、世をすねての”隠棲”でもない。あくまでもバリバリの「現役の思想」の一スタイルなのだ。そしてその元気なうちに超隠居術が準備され、また獲得できれば、楽園を手中にしたも同然の境遇なのである。

超隠居と、単なる隠居の違う一点は、隠居は「世間にも自分にも(じつはこの自分にもというのがけっこうポイントなのだが)一応、第一線から退くことを表明し、以後そのようにふるまう」定着的スタイルである。

しかし、超隠居は、そういう安定的スタイルをとらない。世間に対しても「一歩、退いてはいるようなものの、まだまだ何をしでかすかわからない」というようなバランス状態にしておく。油断がならない存在なのだ。

それでいて、何かおもしろそうなこと、楽しそうなことがあると、いつのまにか登場している。あるいは自ら、存分に楽しそうな生きかたをしていて、周りからうらやましがられたりする存在となる。

改めて言うが、たしかに、好き勝手放題で調子のいい生きかたである。都合よく、楽天的な生きかたでもある。「それができれば苦労はない」といわれるような生きかたを、意識的に(ここが大切だ。つまりは確信犯なのだ)生きようとするのが、超隠居術なのである。

世間のルールにとらわれず、勝手気ままに隠れたり現れたり、あちこち出没する。しかも嫌々行動しているわけではないので、妙にいきいきと楽しそうである。これが超隠居の基本スタイルである。このスタイルは超隠居にのみ許された「忘八」の思想によって支えられる。
「忘八」とは本来、「仁・義・礼・智・忠・信・考・悌」の八徳を忘れ、失った者をさすことばで、色香に迷い遊女遊びにうつつをぬかす輩や、また、遊女屋をいとなむ主人を意味するらしい。これにならって、超隠居の「忘八」を思い浮かべてみると、「四つの義と四つの理」を忘れるところから、超隠居生活が保障されると思われてくる。
その「四義・四理」とは—。
まず「義理」「義務」「正義」「大義」の四義と、「合理」「便理」「管理」「倫理」の四理の計、八。つまり、この「八を忘れる・忘八」こそが、超隠居を実現・維持するためのコツなのではなかろうかと思うわけだ。
義理も義務も正義も大義も、それ自体は大層立派なことだろうが、一度、これが他の口から発せられれば、それは人を縛るための鎖となる。人間の自由な動きをさまたげ、逃げ場のないところへ追いたて拘束する責め具となる。
合理・便理・管理・倫理なども、自己をうまく、また、正しく働らかせる有意義なもののようだが、これらに自らとらわれると、やわらかな発想や、スムーズな心の動きが封じられる副作用を引きおこす、毒性もまた有する。
美辞をもって人の自由を縛り、さまたげることから遁走するために、超隠居は、ノウノウと「忘八」を実践する。いや、もともと、「忘八」を実践して周囲から大きな反発を生じさせないための、安全装置として、超隠居というポーズが必要なのだ。

とにかく、単なる隠居とことなり、枯れ切ることをよしとしない超隠居派は、心のおもむくままに、対象に向けて「愛」や「情熱」を抱く。
しかし、これは、他に対して上に立つためでもなければ、世間からの評価を期待してのことでもない。上昇志向や野心の、本質的に後進的なところは、それが、他との比較、また、他からの評価によって成り立っているという点である。純粋なる情熱は、自ら満足すればよいことであって、他人の評価など念頭にない。
純度が高く、しかもしなやかなプライドを有する超隠居派は、それゆえに、他からの評価など受け付けない。他のものと比較されたり、ランクづけされることなど一笑に付す。少なくとも、そのフリはする。また一切のトレンドやブランドへの追随など、その流れの中の一員になることすら恥じる。もちろん、そういう類の情報すら自分とは無縁と心得ている。
だから超隠居は、あることには異常にくわしいこともあるが、ある分野のことや、時流のことに、まったく「疎い」ということがおこりうる。つまり「疎い」ことが、ただ単に、隠居者のように好奇心がおとろえたためではなくて、自らと無縁のものごとについては、知らないですませられる、あるいは情報というウイルスに侵されない、という、一種のパワフルな状態によるものなのだ。

超隠居は必ずしも年齢とは関係ないが、少なくとも、二度、三度、世間というリングの上で力の限り闘ったことがある人間こそが求めうる境地であり、また、似つかわしい。

ただ、世間との「間合い」に関して、足を止めて打ち合いに持ち込むのではなく、また、相手のクリンチに動きを封じられるのではなく、フットワークよろしく、ヒット&アウェイの戦法をとろうとするものである。

【八訓】
一、超隠居術は世俗にわずらわされず、しかも世俗の悦楽を存分に味わいつくすための戦略・戦術と心得るべし。
二、超隠居は引退にあらず。世間を相手にした、かくれんぼの要領と心得るべし。つまり、よりフットワークを軽くするための生き方のポーズである。
三、よって、十分元気なうちに隠居のスタイルを確立しなければ、パワフルで快楽的な、超隠居生活は満喫できぬものと心得るべし。
四、超隠居は「四義と四理」を忘却することが許された、「忘八」の境遇を獲得するものと心得るべし。ちなみに「四義」とは「義理」「義務」「正義」「大義」であり、「四理」とは「合理」「便利」「管理」「倫理」。以上、「義・理」の計八を忘れてもよい、つまり「忘八」を自ら認ずることである。
五、超隠居は、上昇志向とはなにより無縁と心得るべし。もともと超自己中心の境地には、他に獲得すべき「上」の事物などあり得ないからである。
六、超隠居は「集会・結社の自由」を自ら厳しく戒むべし。なぜなら人間、多勢集えば、ろくなことしか、しでかさないことを熟知しているからだ。ただし、気ままな離合集散はこの限りではない。「孤立を楽しみ、連帯にわずらわされず」こそが、自在の超隠居の知恵である。
七、超隠居術は一概に年齢上の問題だけではない。超隠居術は世間と自己との”間合い”の技術と心得るべし。
八、超隠居には、他者から”べし”などといわれる筋合いなどない。超隠居は、なにより自由闊達の身の上であることをよくよく心得る”べし”。

いやー、パワフルですね。

言葉に魂がこもっているので、読んでいるこちらも自然と身に力が入ってしまいます。

書かれている内容も、隠居のようで隠居でないという絶妙なバランスを保っています。

これは一読の価値ありだと思います。

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