講演を聞いたり本を読んだりしていると、講演者なり著者なりが「〜わけです」という表現をすることが多いですよね。
みなさんもこの言葉には出会ったことがあるのではないかと思います。
この表現、いつも気になるんです。
だって日常生活ではほとんど使わないのに、なぜか講演や本の中では頻繁に使われていますよね。
しかも、特に使われる際に明確な理由があるわけでもありません。
むしろこの後述べるように、特に文章において「〜わけです」という表現を使うことには、マイナス要素が多いと感じます。
今日はこの「〜わけです」という表現について述べたいと思います。
単純に読みにくい
例えばさっき読んでいた本の中に、
「写真や動画を活用したりすればいいわけです」
という表現がありました。
しかし、この文章の意味は
「写真や動画を活用したりすればいいのです」
という、よりシンプルな表現で十分に伝わります。
この2つの文章を並べてみます。
どちらが読みやすいでしょうか。
- 「写真や動画を活用したりすればいいわけです」
- 「写真や動画を活用したりすればいいのです」
ぼくは下の文の方が読みやすいと思います(ほんとは「したり」も抜きたいところですが、今回のテーマから外れるので今回はそのままにします)。
しかも、「〜わけです」という表現を使うと文字数が増えますよね。
文字数が増えるということは、それだけ読者に負担がかかるということです。
読者に負担がかかる文章は、はっきり言って読みにくい文章です。
このように、「わけです」を語尾につけると、文章が読みにくくなる場合が多いです。
種明かしがあるわけでもない
「〜わけです」の中に含まれる「わけ」は、しばしば「理由」のふりがなになるので、何かの理由を述べるときに使われる場合があります。
すなわち、「〜という理由があるんだよ」といったように、何かの「種明かし」を行う際に使われることがあります。
しかしさっきの「写真や動画を活用したりすればいいわけです」という文を例にとっても、特にこの分に種明かしの要素があるわけではありません。
要するに、この文では「〜わけです」という表現を使う理由が何もないわけです。
「〜わけです」を使いたくなる理由
このようにマイナス要素が多いと思われる「〜わけです」という表現ですが、では逆になぜ使いたくなるのかを考えてみると、以下の理由があるように思います。
著者の語尾のバリエーションが少ない
基本的に、連続する文の語尾を同じものにし続けることは文章を書く上で避けたいことの一つですが、語尾のバリエーションが少ない人にとってそれは難しいことです。
このような人にとって、逃げの表現である「〜わけです」は非常に使い勝手がいい。
なぜなら「〜わけです」という語尾をつけることによっていかにもそれらしい文章に見えるからです。
しかし先ほども述べたように、「〜わけです」という語尾を使うことにはマイナス面もあります。
それを理解した上で、本当に必要なときに使うだけにとどめておいた方が無難です。
文章を賢く見せたい
ある分野に精通している人は、その分野に関して深く、かつ幅広い知識を持っているので、必然的に人に何かを説明する機会が多くなります。
その中で、先ほどの「種明かし」をする機会も増えるでしょう。
そのため、そのような人が必要に応じて「〜わけです」という表現を使うことにはぼくは反対はしません。
しかし、このような人たちが「〜わけです」という語尾を使い続けていると、それを真似して「〜わけです」という語尾を使う人が増えてきます。
自分の文章を賢く見せたいがために、本当に賢い人が使う表現を真似て用いるのですね。
しかし、一般人が本当に賢い人と同じ表現を用いたところで、内容が伴っていないので軽い文章になってしまいます。
自分を大きく見せようとして中身が空であることがバレるよりは、はじめから等身大で勝負した方が身のためです。
癖になってしまっている
上記の2つの理由などから「〜わけです」という表現を使い続けていると、その表現を使うことに違和感がなくなっていきます。
そして気がつくとその言葉を使うことが癖になってしまいます。
しかしマイナス面が多い言葉なので、癖にするには危険が伴います。
自分が「〜わけです」という表現を使うのが癖になってしまっている人は、改めて見直してみてはいかがでしょうか。
今日は自分の気になる表現について書いてみました。
表現法のことを書くことは、その内容がブーメラン方式でそのまま自分に返ってくるので緊張するのですが、日頃からずっと気になっていたので、表現できてすっきりしました。
今後も他人の振りを見て我が振りを直していきたいと思います。