隠居は自己実現である:横尾忠則『隠居宣言』を読んで

スポンサーリンク
レクタングル728*90

※シェアは下のボタンからどうぞ。

今日は、本ブログで過去に何度も引用している、横尾忠則さんの『隠居宣言』の読書メモです。

横尾さんは、元グラフィックデザイナーで現在は画家、西脇市名誉市民にも選出されているすごい人です。

本書の概要

六〇年代に若者文化の象徴的存在となり、その後も美術の第一線でエネルギッシュに活躍する横尾忠則―彼が「隠居」を宣言した!隠居宣言とは何か?その目的は?それからどう変わったのか?さらに毎日の生活、健康と病気、故郷への想い、死についての意識まで、新しい生き方のヒントとなる一〇八の答え。隠居とは、肩の力を抜いた生き方!人生をより楽しく、より創造的にする。

(BOOKデータベースより)

実際の中身はQ&A方式になっているので、本文は話し言葉の書き起こしになっています。

そのため少し分かりづらい点もありますが、ご容赦ください。

<江戸時代では>四十代になると、みんな隠居になりたがった。隠居は江戸時代のステイタスだった。それから隠居後にいい仕事を残したって、三六歳で隠居した<歌川>広重や<葛飾>北斎の例を挙げて話しました。

アメリカ人なんかのいう、リタイアの後のカントリー・ジェントルマンがまあ「隠居」に当たる言葉ですかね。でも日本の「隠居」のもつ思想はもっと「悟り」に近い。西洋人の「リタイア」っていうのは、稼いだお金を使って、旅行だとか自分の趣味に熱中するんじゃないですか。生活を単にエンジョイしたいっていうことでしょ。つまり「リタイア」は自己実現っていうことをあんまり考えてないだろうけど、隠居はそこに自己実現っていうビジョンがあるんじゃないかと思うんです。

一番隠居らしいことをしているのは、何か趣味的なものに没頭している時だと思うんですよ。

隠居は他人に支配されるのではなく、自分が自分を支配する生き方だと思う。つまり自分が中心であるということだが、いわゆる自己中(心)というのではない、あくまで自我中心ということである。<中略>ここではいわゆる「我思う、故に我あり」の意味での自分である。

隠居になるということは形式やルールを守ることではなく、それを外すことだから、制約があったらおかしい。

隠居と健康は不離一体の関係である。まず隠居の資格は健康であるということである。<中略>隠居は延命されて初めて隠居である。

西脇は都会生活と違って、すでに隠居的環境が設定されています。家の周囲に菜園がある人がいるように、自然との関わりが大きいんじゃないかな。田舎の人たちは、自然と隠居が一体化しているというか。

隠居の生活は創造的でなければならない。なぜなら仕事や生計の責任を放棄して好きなことをして閑居するわけだから、のんびりと暮らさざるを得ない。つまりこの「のんびり」が重要である。今までのせかせかした生活から世事を離れてのんびりすることで、隠居は創造的になるのである。多忙を極めていると、いくら創造的な職業といえども創造的になれない。

「どんな時に隠居になれるか?」ですか。ある程度やり尽くした時だと思う。あとは子供なり人にその仕事を譲って、本人は悠々自適の人生を送ればいい。でもそんな生き方を悪とする社会に共感する者には隠居は無理だろう。

隠居になれるのは「ある程度やり尽くした時だと思う」と書いています。でも、やりたいことをやり尽くした人間がなるんじゃなくて、隠居になって初めてやりたいことをやろうとするんじゃないかな。大学院に入るようなものかな?

若い人たちの中には隠居以上に隠居的な人もいるんじゃないかな。ただ社会からドロップアウトしただけの無気力で非創造的な若者老人が。

※<>内はサカモト(仮)による追記

本書の大きなメッセージは、「隠居は自己実現である」だと受け取りました。

制約を外し、自分が自分を支配した上で、悠々自適にかつ創造的に生活する。

力強いメッセージですね。

気になった方は、以下のリンクからぜひ。

中古なら本体はタダ同然で購入できますよ。

合わせて読みたい

合わせて読みたい

関連記事
スポンサーリンク
レクタングル大336*280
レクタングル大336*280

※シェアは下のボタンからどうぞ。